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2008-12-27

驕りの昭和史 其の弐

 前回の続き。

■ 文民の罪

 あの番組には一つ作為あった。その作為は相変わらずの「文民=善」、「軍人=悪」という思いの為す業だろう。

 それらは、途中で2.26事件を挿入したり、最後で

 「軍人は戦争が商売ですから」

 「軍人は戦争をしたがりますから・・・」

 等のコメントを差し込んだりする辺りに表れている。

 しかし、上記の統帥権干犯問題を国会で煽ったのは、当時の野党(政友会)の政治家(鳩山兄弟の祖父・鳩山一郎や、戦後は良識的人物と見られがちな犬養毅)である。しかも倒閣の為、政局に利用していたのだ。

 軍部が統帥権干犯を持ち出す原因となったロンドン海軍軍縮会議は、軍部が対米七割必要だと主張する中、文民(浜口雄幸内閣下で、浜口雄幸首相が陸軍・海軍両大臣を代行した)が主導で決行した。
 この軍縮は、人によっては「当時の指導者からして、政治的、軍事的に無能力であった」と評される事もある。

 その前後に、ワシントン軍縮会議に基づく軍艦廃棄や定員削減、陸軍の五個師団分の人員縮小や四個師団を無くす等、日本では大きな軍縮が行われている。
 更には一九二〇年代当時、第一次世界大戦を経た世界には、厭戦ムード・軍縮ムードが広がり、民間から軍は穀潰しとして軽侮されるなど、社会的な待遇も悪かった。

 その上、ロシアでは共産革命が起こり、その余波としてニコライエフスクにいた日本人五〇〇余名程が虐殺される事件が起こり、支那では日本人居留民が死傷される事件が相次ぐ中、政府は何もせず(若槻礼次郎内閣下での幣原外交)、現地に駐留していた軍が独断で居留民を保護せざるを得なかったりするなど、日本を取り巻く情勢も悪化していた。

 こういった経緯が、結局青年将校らの決起を招来し、文民の世を終わらせるわけだが、それは、最低でも大正まで遡って見ると、文民自身の手でもたらされた面がある事が解る。

 当時の民間人も含めた文民が、軍を追い込んでいったという側面を無視しての軍人悪玉論が、現在の主流的な歴史観だが、その事についての無知が、田母神論文問題に見られる文民の暴走をもたらしていると思うのは、私だけだろうか。


■ 海軍は善玉・・・では無い。

 劇中で、徳富蘇峰が伊藤博文、山縣有朋と並んで「偉い」と評していた人物に連合艦隊司令官の山本五十六がいるが、山本五十六はそんなに偉くない。むしろ愚か

 先に挙げたロンドン軍縮会議の結果、対アメリカ六割に抑え込まれた海軍では「米英には敵わない」という強烈な劣等感が出来てしまっていたと言われる。

 それは、山本五十六の有名な言「ぜひやれ、と言われれば、初めの半年か一年の間は、随分と暴れて御覧にいれます。しかし、二、三年となれば、全く確信は持てません。」に、明示されている。

 同じ連合艦隊司令官でも、明治時代、バルチック艦隊が来航した時の連合艦隊司令官・東郷平八郎は、明治天皇の御下問になった際、こう奉答している。

「誓って敵艦隊を撃滅し、宸襟(天子の御心)を安んじ奉ります」

 当時、日本はロシアに絶対勝てない、大人と子供の戦いと言われていた。
 しかも、日米戦争時の日本とアメリカの国力比より、日露戦争時の日本とロシアの国力比の方が全然開いていたと言われる。数値にすると、「日米」が1:2ほどで、「日露」は1:8もあったという説もある。日露戦争の方が日米戦争より全然厳しかった。

 そんな中での「バルチック艦隊上等!」発言、しかも天子への奉答は絶対だから皆仰天したが、結果はバルチック艦隊粉砕で、見事に有言実行、東郷は英雄となった。

 東郷は必勝の信念を有していたが、山本は、いわば「必敗の信念」を有していたわけで、これでは勝てるわけが無い。やる気が無いのだ。

 大体、山本の立案した真珠湾攻撃は戦闘的実効をもたらさず、却ってアメリカの戦意を高揚させるだけに終わってしまった。
 しかも、これを機にアメリカは日系人をまとめて収容所に送りこんでいるが、この行為は日本がアメリカ国内に作った諜報組織の壊滅が目的と言われる。

 また、ミッドウェー海戦で海軍が壊滅的な打撃を受けると、これを国内に於いては徹底的に隠蔽する事に腐心し、国民や昭和天皇を欺き通した。

 しかも、陸軍は海軍が公言した虚偽戦戦果に基づいてレイテ島作戦を立案。結果、八万人の部隊の九七%以上の戦死者を出す、史上空前の全滅だった。

 帝国海軍の大戦果。マスメディアの反日報道。これらはウソの代名詞である。

 佐藤晃 『太平洋に消えた勝機』 二二四項


 海軍善玉論に支配されていては、大東亜戦争の全貌は解らない。


■ 大東亜戦争は「運命」

 外に目を向けると、当時は白人至上主義とも言える程、人種差別が当然の摂理とされ、今でこそ独立国だらけの世界は、悉く欧米列強の植民地とされていた。
 この実態を直接見た当時の日本人達は、強い危機感を抱き、富国強兵への道を驀進する。

 そんな中でも、日本はアメリカに対しては友好的な感情を抱いていた。

 しかしアメリカは、日露戦争後から日本を仮想敵国とみなしはじめ、対日戦略として「オレンジ計画」を長期的に練り上げ、その計画通りに日本を開戦に追い込んでいったと言われる。
 又、近年では、一九四一年九月、真珠湾攻撃に先立ち、アメリカが米軍爆撃機とパイロットを投入して、日本本土を爆撃しようと計画していた事が、アメリカ自身の公文書の公表に依って明らかにされている。
 アメリカは日本と戦う気満々であった。

 日本がこの敵意に気付くのは、1924年の、俗に排日移民法と呼ばれる移民・帰化法改定に代表される、アメリカ国内での日本人排斥からだが、これが日米関係に与えた影響は甚大だった(例えば、英語で「武士道」を著した事で知られる親米派・新渡戸稲造がこれを機に「二度とアメリカの地なんぞ踏むもんか!」と言いだすほど、それまで親米的だった日本人までアメリカを嫌悪する様になった)。

 上記の経緯から保守派の知識人には、大東亜戦争について、『人種戦争』『白人至上世界を粉砕した戦争』と評す人もいる。

 因みにこれらは昭和以前からの話だから、『昭和史』の世界では考慮されないらしい。
 ああ、だから答えが永遠に見出せず、「あの戦争はなんだったのか」と常に問い続ける事になるのか。納得。

 第一、その時その場にいた人々の決断だけで、戦争を回避出来たかと言われれば、それは逆に個人の力量がその時の全てを左右する事を意味し、「日本が全般的に主導権を握っていた」と言う話になる。主導権を握ってるんなら山本五十六に代表される「必敗の信条(アメリカと戦えば必ず負けると思い込む)」なんて抱かんだろう。
 開戦を極力回避しようとしていた、負けるとも思っていた割に、戦争についての主導権は握っているというのは、外に目を向けないが故に生じる矛盾だろう。

 最後にこの一節でも読めば、「あの戦争は何だったのか」という問いに対する、答えの参考にはなる。

(省略)

 最後に、「もし」という言葉を使うならば、もし日本が一九四一年(昭和一六年)十一月の段階で、米国との戦いを避けてハル国務長官の要求どおりに仏印や支那大陸から撤兵し、満州事変以前の状態に押し戻されたとしたら、中国人の蔑視を猛反撃を受けて満蒙の権益は守られなかったのではないか、。さらに米国やソ聯の圧力のもと民族独立の大波の中で数年を出でずして朝鮮半島を失ったであろうことは間違いあるまい。そうなった場合の日本民族は、華々しく戦って敗れた日本民族とは違って、二度と立ち上がる気力を失い、恐らく朝鮮とともに中国の下風に立ち、ともに米国の威令に服することになったであろう。

 終戦後四十数年の歳月が流れた。私は思う、後世の歴史家は、大東亜戦争を戦った帝国日本と経済大国となった現在の民主日本を一対として考え、日本民族の歴史の中でもっとも活力に溢れた時代であったと評価するだろう。われわれの先輩たちは、侵される帝国主義華やかなりし時代に、列強監視の中で帝国日本を建設し、その独立を守るために三たび大陸で戦った。大東亜戦争は日本人にとって避けられない運命的な戦争であった。避けられない戦争を指導した、いわゆる戦犯たちは、日本人から見れば戦犯ではない。大東亜戦争を潔く戦って犠牲となった英霊たちの冥福を祈る次第である。

 和田耕作 『歴史の中の帝国日本』 四六一頁


 上記の著者である和田耕作氏は、大東亜戦争で兵役に従事し、戦後はソ連抑留、帰国後は民社党から立候補して衆議院議員を六期務めている。当時の生き証人の一人である。

 当時を生きた人は、『それは運命であった』と感じていた。
 その意味は深く、重い。



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