日々思うところを徒然に書き記す。
といっても、別にレバノン共和国に報復せよ!と申しておるわけではございません念の為。
そもそも報復する様な仇も何もありませんが。
息子よ日本へ…寺越武志さんの母が50回目の訪朝
出漁先の日本海で46年前に行方不明になった後、北朝鮮での生存が判明、現在平壌で暮らす寺越武志さん(59)の母、友枝さん(77)(金沢市)が6日、現地に向けて出発した。
北朝鮮に「救出」されたとの立場を崩さない息子と面会するため、1987年から続けた訪朝も今回で50回目。日朝関係が行き詰まる中、帰国の願いを胸に、関西空港から7日、中国・瀋陽経由で平壌に向かう。
武志さんが叔父2人と出漁中に行方不明になったのは63年5月11日。まだ13歳だった。友枝さんは涙ながらに葬儀を行い、死を受け入れたが、87年1月、親族の元に叔父から手紙が届き、北朝鮮での生存が判明。友枝さんはその年の8月末、北朝鮮に渡り、24年ぶりの再会を果たした。許された時間は4日間だった。
友枝さんは武志さんの帰国を求め、関係機関を駆けずり回ったが、当時の政府の反応は鈍かった。友枝さんは「帰国できないなら私が行くしかない」と訪朝を重ねてきた。
拉致認定を求め、横田滋さん、早紀江さん夫妻らと行動を共にした時期もある。元北朝鮮工作員の証言などから拉致の疑いが否定できない。しかし、武志さんは「海に投げ出され、北朝鮮の漁船員に助けてもらった」と説明、現地には妻子と孫がおり、肩書は平壌市職業総同盟副委員長。友枝さんは、拉致被害者の家族とたもとを分かち、微妙な立場で訪朝を続けるしかなかった。「ひきょう者」とののしられ、嫌がらせの電話を受けても、「武志の方がよっぽどつらい思いをしている」と耐えてきた。
北朝鮮での親子水いらずの時間は、アルバムや日記になって、自宅の押し入れに山積みになった。友枝さんは、硬い表情の2人が並ぶ初訪朝時の写真を手に、「21年が過ぎ、2人とも年を取ったが、状況は何も変わっていない」とつぶやく。武志さんは2002年10月の一時帰国以来、日本に戻っていない。「武志は今年で還暦。もう一度故郷の土を踏ませてやりたい」。友枝さんは帰国実現を願い、訪朝を続けると語った。
(2009年1月6日16時32分 読売新聞)
【レバノン人女性拉致事件】
1978年、レバノン・ベイルートの秘書養成学校に「日本のヒタチで秘書として働かないか」という求人があった。これに応じたレバノン人女性4人。しかし、ついた先は北朝鮮の平壌だった。連絡の取れなくなった4人の家族が騒ぎ始めると、北朝鮮は4人のうちの2人をユーゴスラビアまで連れ出し、ホテルからレバノンの家族に電話をさせ「私たちは元気でいるから」と偽装工作をさせた。
しかし、この2人の女性が監視の目をかいくぐって脱出。ユーゴスラビアにあったクウェート大使館に逃げ込み、拉致の事実が発覚。レバノン政府は強く抗議。北朝鮮は当初、拉致を否定していたが、4人の女性を連れ出した犯人の一人がベイルートにあった北朝鮮貿易代表部の副部長だったことも判明。レバノン政府はゲリラ組織PFLPなどにも仲介を要請、翌年、4人はレバノンに帰ることが出来た。
この4人のうちの一人シハームさんは、元米兵のジェリー・バリッシュ氏と結婚させられており、既に妊娠していたため自ら北朝鮮に戻った。後、シハームさんの母親は一度北朝鮮の娘のもとを訪ねている。元米兵のジェリー・バリッシュ氏は1999年死亡したとされている。しかし、その後も、シハームさんは北朝鮮を出国出来ずにいる。
曽我ひとみさんがこのシハームさんと平壌の外貨ショップに出かけた際、日本人らしい女性を見かけた。シハームさんはその女性に近づき懐かしそうに話しを始めた。後で曽我さんが「あの女性は誰なの」と聞くと、「ロンドンから連れてこられた日本人だ。産院が一緒だった」と答えたという。この日本人女性が有本恵子さんである。
電脳補完録 拉致問題解決まで
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Author:徒然@甲斐田新町
禁断の世界へ踏み込んだ事は、未だに後悔している。